【SUNDAY坊主BAR・文字起こし】ゲスト吉村昇洋さん
ゲスト吉村昇洋さんとの様子が文字起こし。
「心が疲れたらお粥を食べなさい」吉村昇洋著 (幻冬舎)
サッキー:さて、良い感じでお酒も進んでまいりましたので、ここでですね、先ほど秀吾さんから紹介していただいた、本を書いたお坊さんたち、BOOK坊主さんたちにお話しを聞いてみたいと思います。
サッキー:さあ、それではここで、電話がつながっていますよ。広島の普門寺副住職、吉村昇洋さんとお電話がつながっています。呼んでみましょう。吉村さーん。
吉村さん:はーい。
サッキー・秀吾さん:こんばんはー。
吉村さん:よろしくお願いします。
秀吾さん:よろしくお願い致します。
サッキー:お願いします。
吉村さん:はい。
サッキー:吉村さんと秀吾さんはなにやら繋がりがあると言うことで、秀吾さんちょっとご紹介いただけますか。
秀吾さん:はい。吉村さんですけれども、私の大学のゼミの先輩になります。私が大学3年生の時に大学院生の先輩でして、今広島県の曹洞宗のお寺の副住職さんですけれども、それ以外にも臨床心理士としてもご活躍されています。ご自分のイベントだけでなく、大学やカルチャーセンター等での講義、あとはテレビ・ラジオなどの多方面でご活躍されているスター僧侶の方でございます。
サッキー:おお!スター僧侶!
吉村さん:(笑)
秀吾さん:ちょっとハードルあげましたか(14:54)
吉村さん:もったいないご紹介ありがとうございます(笑)
秀吾さん:なんか足りないところがありましたら、吉村さんの方から。
吉村さん:いやいや十分でございます。
サッキー:ありがとうございます。燈門さん、大変なイケメン僧侶でいらっしゃって。
燈門ママ:ねえ。これがラジオだというのが本当に残念。
サッキー:なにかしら吉村さんのお顔がわかるように、Twitterなんかでお写真も発信できればなっていう風に思いますけれども。
燈門ママ:そうね。
サッキー:燈門さんが大変タイプだということでございました、吉村さん。
吉村さん:ありがとうございます。光栄でした。
燈門ママ:言わせちゃったみたい(笑)
サッキー:吉村さんは、大学時代の秀吾さんをご存じだということで。
吉村さん:はい。
サッキー:大学時代の秀吾さんってどんな感じだったんでしょうか。
吉村さん:もうとにかく熱量の高い人でしたね。やっぱり話してて面白い後輩って印象に残ってるんですけど、ダントツです。
秀吾さん:本当ですか、ありがとうございます。
吉村さん:とにかく社会的な問題への関心が高かった。まあ今も高いですけど、当時からかなり高くて、色々学ぶ所もあっておもしろかったですね。
秀吾さん:ありがとうございます。
サッキー:褒められてかなり秀吾さんが今にやにやしていますけれども。
吉村さん:(笑)
秀吾さん:いやでも、確かに私、どちらかというと仏教よりはそういった社会的なテーマ、まあゼミの先生も比較的そういう研究に積極的にサポートしてくれる先生でしたので、それに甘えて、色々と自由気ままな学生生活を過ごしておりました。
サッキー・吉村さん:(笑)
サッキー:今回ですね、本当に様々なメディアを通して精力的に禅仏教をを伝えてらっしゃる吉村さんなんですけれども、本のご紹介ということで、『心が疲れたらお粥を食べなさい 豊かに食べ、丁寧に生きる禅の教え』という本を今回はご紹介してまいりたいと思います。
サッキー:これ秀吾さんが今手元に持っているんですけれども、またですねこれ表紙が素敵。これ表紙は鼻から下しか映ってないんですけれど、これ吉村さんっていうことなんですか。
吉村さん:これ私ですね。
燈門ママ:きれいな口元なのよねえ。口角がキリッと上がって。
サッキー:すごい素敵と、思いましたけれども。
サッキー:一言で現わすとどのような本なのかというのを教えていただけますか、吉村さん。
吉村さん:一言で言うと、禅の精進料理の考え方について述べたものです。その考え方っていうのは、実際の作法を通して食事を作り、作法を通して食事をいただいて、また作法にのっとって片づけをして、っていうような具体的な方法があるわけですけれども、その紹介とともに、そういったことで、つまり全ては生きるということに繋がっていくことでもあるので、禅の考え方から、生きるとはどういうことか、ということについての、この4つについて述べた本になります。
サッキー:なるほど。もちろん秀吾さんもこれお読みになっているということですよね。
秀吾さん:もちろん、はい。もう何度も読んでいます。
サッキー:いかがでしょうか、秀吾さん読んでみて。
秀吾さん:また最近読み直したんですけれども、このお粥との関係を毎日見続けることが大切です、みたいなことが書いてあるんですね。修行道場っていうのは、変わらないルーティーンを毎日こなすんですけれども、自分の体調もそうだし、周りの環境とかって微妙に変化しているんですね。そういった中で、毎日変わらないルーティーンがあるっていうことで、日常に気づくことがあるっていうのは本当に、今回のコロナの中でも、そういう変わらないものと変わるものがあるっていうのは、非常に意識しました。
サッキー:やっぱりお粥っていうと、結構みなさま身近で、すぐぱっと作って食べられるようなもので、それもまた取り入れやすいなっていう風に思いましたし、ただ食べるだけじゃなくて、しっかりと作法にのっとって、というところで、心に繋がってくるってことなんですよね。
吉村さん:そうですね。そもそも実は日本のお坊さんにもあまりよく知られていないところなんですけど、これインドからの伝統で、朝はお粥っていうのは割と決まってるんですよね。インド、中国、日本とも、ほぼ朝ごはんはお粥っていう決まり事でして、そういうことはおそらく意味があるっていう。お昼の一食だけが正式な食事だっていうのもありまして。朝は軽いものを食べましょう、っていう程度のことではあるんですけれど、そのルーティーンの中で捉えていくっていうのは大事ですね。しかも、一般的にお粥っていうと、病気の時に食べると思うんですけど、病気じゃなくても食べるっていう、ここがやっぱり、良いところというか。お粥の十徳っていう、10の利益っていうのがありまして、そういったことなんかも噛みしめながら、便通が良くなるだとか、すごく日常に生かされるようなものがあるんですね。言葉がきれいに出やすくなるだとかっていうのもあるので。そういう風な意味合いでも、日常的に朝お粥っていうのはおススメできるなっていうのもありますね。
サッキー:秀吾さん、お粥食べてますか。
秀吾さん:ええーっと、はい、はい、食べております。
吉村さん:本当かなあ?
秀吾さん:(笑)
秀吾さん:あと、お粥ももちろんそうですけど、やっぱり精進料理っていうものはいつの時代も注目されているとは思うんですけれども。特に、吉村さん、精進料理の教室をやったり、精進料理に関する本とかも何冊かお出しになっていると思うんですけれども、その中でも出ているんですけど、仏教経典には精進料理という言葉は出てこない、というようなことが書いてたりしますけれど、精進料理についてちょっとご説明いただけますでしょうか。
吉村さん:そうですね、精進料理って言葉は、本当に一般的によく使われるんですけれど、経典の中に一切出てこない。ここが非常に面白いところだなって思っていたので。民衆側から生まれてきた言葉だってことなんですよね。この精進という言葉自体は、仏道修行に励むという意味合いになります。ということは、多くの方が理解しているのは、仏道修行に励む僧侶が食べそうな料理という言葉が認識されているんですけれど、もしそうだとするならば、野菜料理と何が違うのかって話になるんですよね。例えば、精進料理が運ばれてきて、こちら精進料理ですって風に提供されたとしても、いやこれ野菜料理でしょって言い返されたらぐうの音も出ないんですよ。一応精進料理っていうのは、ニラとかタマネギだとからっきょうだとかニンニクだとか、そういう香りの強いものは使わないっていうルールがありますので、限定的な食材の中で作られるものなんです、って説明があったとしても、結局限定的な野菜料理でしょ、って言われてしまえば本当に何も言えなくなってしまう。となってくると、別の解釈ができるはずで、それはやはり精進という言葉に含まれている。何故かというと、精進という言葉には、仏道修行に励むという意味合いがありますので、食べることも、作ることも、仏道修行して行われる料理という意味合いが解釈としては出来るということになってきます。実際それをするのが禅宗の僧侶達なんですね。これは、そういう風な説明は受けませんけれども、実際にはそのように運用しているという現実がありますので、ここのところは一般の方たちにも理解されやすいところだし、一般の方たちの実践にも役立つところだなというのがあって、今回この本の中では、かなり押している部分ではあります。
秀吾さん:そうですね。修行として、食事をいただくという部分であったり、後は料理を作らせていただくという視点。本当に大切な視点として、循環みたいなことが途中で書いてあるんですけれども、そういう優しさの循環みたいなお話しで出てきていると思うんですけれど、そこらへんのお話しを少し聞かせていただきたいのですが。
吉村さん:これは私が心理学をやっている人間だというのも関係していまして。私がよって立つ立場っていうのが認知行動療法という立場なんですけれど。その考え方は何かというと、心の問題だっていうと自分一人の問題だとか、その人個人の問題だと捉えられがちなんですけど、実際そうではなくて、自分の周りの他者、つまりは環境なんですけれど、環境側との相互作用の中で病気になり、問題というのが発症している、と考える。ということは、他者と自分というものを常に行き来しながら見ていないといけないのが人間だ、っていうところが、私の中でかなり根付いていて、それって実は禅の考え方だとか仏教の考え方がまさにそうだなって感じるところもあるわけですよね。特に大乗仏教の場合には、他者に生かされているっていう考え方がどの宗派でもありますから。であるならば、生かされている自分っていったところが、どのように他者に対して働きかけて、逆に他者から自分に対して働きかけられているかっていうことを常に今この瞬間見続けることが大事だと。それを、この食事という場面において、どのように見ていけば良いのかってことについて、色んな例をあげながら書いたって感じですかね。
秀吾さん:ありがとうございます。
サッキー:私も燈門さんもたぶん心疲れていると思いますから、今すぐお粥を作っていただきたいと思います。
燈門ママ:そうね。
サッキー:読書の秋でございますから、リスナーの皆さんもぜひお手に取ってご覧になっていただきたいと思いますし、ぜひ吉村さんこのコロナ禍が落ち着きましたらSUNDAY坊主BARにも遊びにいらしてくださいね。
燈門ママ:お待ちしております。
吉村さん:ぜひ。
サッキー:よろしくお願いします。
サッキー:今日は、普門寺副住職の吉村昇洋さんにお話しを伺いました。秀吾さんもじゃあ最後。
秀吾さん:どうも、ありがとうございました。
吉村さん:ありがとうございました。よろしくお願いいたします。
サッキー:ありがとうございました、失礼しますー。
吉村さん:失礼いたしまーす。
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